← わたくし、今日からお嬢様になりますわ!~お嬢様に憧れて何が悪いんですの?~(第一部完結)
第98話
皆のことをもっと知りたいですわ!
写真を飾った翌日、麗奈は書庫で一人、机へ向かっていました。
目の前には、屋敷で暮らす者たちの名前を書き留めるための紙があります。
「わたくし、皆のことを案外知りませんのね」
改めて考えてみると、知らないことばかりでした。
小春が十六歳だと知ったのも最近です。
橘が女性だと知ったのも最近です。
シロが雄で、ノアが雌だということも、すべて後から知りました。
それどころか、小春の名字すら、玄関に落ちていた郵便物を見て初めて知ったのです。
「これは、お嬢様としてよろしくありませんわ」
麗奈はペンを手に取りました。
まず、自分の名前を書きます。
『一ノ瀬麗奈』
「立派なお名前ですわね」
自分で書いて、自分で満足しました。
その下へ、小春の名前を書きます。
『日並小春』
「日並小春……」
口に出してみると、柔らかな響きでした。
「本人は、あまり柔らかくありませんけれど」
聞かれれば怒られそうなので、小さな声でいいました。
そして次に、橘の名前を書こうとしました。
『橘』
そこで、麗奈の手が止まります。
「……下のお名前は何でしたかしら」
何度考えても、聞いた記憶がありません。
麗奈はこれまでずっと、橘を名字だと思って呼んでいました。
「橘という名字に似合うお名前……」
麗奈は腕を組みました。
最初に浮かんだのは、短い髪と低めの落ち着いた声です。
「橘凛」
それらしい気はします。
しかし、先日見た私服姿を思い出すと、少し印象が違いました。
淡い色のワンピースに、柔らかなカーディガン。
普段の執事服からは想像できないほど清楚で、綺麗な姿でした。
「もう少し上品なお名前ですわね」
麗奈は紙の端へ候補を書き始めました。
『百合子』
「少し違いますわ」
『静香』
「悪くありませんけれど……」
『美咲』
「明るすぎる気がしますの」
麗奈は何度も首を傾げました。
そして、次の名前を書きます。
『綾乃』
「……橘綾乃」
口に出した瞬間、麗奈は動きを止めました。
「妙にしっくりきますわね」
もう一度、声に出します。
「橘綾乃」
清楚な私服姿にも合います。
落ち着いた声にも、整った顔立ちにも合っています。
考えれば考えるほど、橘が綾乃という顔に見えてきました。
「もう綾乃でよろしいのではなくて?」
名簿へ書き込みかけ、麗奈は慌ててペンを止めました。
「駄目ですわ! 勝手に名前を決めてはいけませんの!」
危うく、本人の知らないところで橘の名前を決めるところでした。
そのとき、廊下の向こうから橘の声が聞こえます。
「お嬢様、夕食の準備が整いました」
「いま行きますわ!」
麗奈は返事をすると、紙へ並べた候補を慌てて重ねました。
下の名前など、本人に聞けばすぐに分かります。
「明日、きちんと聞きますの」
そう言って立ち上がった麗奈は、書庫を出る直前にもう一度だけ紙を振り返りました。
「……ですが、やはり綾乃顔ですわね」