EPISODE
はれとあめ
僕は、晴れを待っていた。
理由はひとつではない。
まず、洗濯物がたまっている。
昨日まで使っていたタオルが、いま部屋の隅で小さな山脈を形成していた。標高はおよそ四十センチ。登頂する気はない。
次に、布団を干したい。
最近なんとなく布団が重い。湿気なのか、疲労なのか、あるいは僕の人生が染み込んでいるのか、どれかは分からない。
それから、自転車で少し遠くまで行きたい。
駅前に新しいパン屋ができたらしい。外観がやたら白く、店名がフランス語で、窓際に小麦を入れた麻袋が置いてあるタイプの洒落た店だ。
たぶんパンは高い。
でも、僕は行ってみたかった。
つまり僕には、晴れなければならない理由がたくさんあった。
カーテンを開ける。
空は曇っていた。
「……惜しい」
惜しいという表現が正しいのかは知らない。
晴れではないが、雨でもない。天気としては煮え切らない状態だった。
僕はテレビをつけた。
『本日の天気は、全国的に雲が広がりやすく、ところによっては雨が降るでしょう』
「ところによるなよ」
僕はテレビの前で天気予報士に圧をかけた。
『なお、晴れ間がのぞく地域もある見込みです』
「どこだ」
天気予報士は答えなかった。
当然である。
僕はテーブルの上に置いていた、てるてる坊主を見た。
昨日、ティッシュで作ったものだ。
顔は油性ペンで描いた。笑顔にしたつもりだったが、左右の目の高さが違い、口角も片方だけ上がっている。
インクが滲んで穴が開いてるところもある。
天候を操るというより、こちらの弱みを握っていそうな顔だった。
「頼むぞ」
僕はそいつを窓際につるした。
一方そのころ──
どこかにいる君は、雨を待っていた。
理由はひとつではない。
まず、新しい傘を買った。
透明なビニール傘ではない。持ち手が木製で、布地が深い青色で、開くと内側に小さな星が散っている傘だ。
そして、雨で濡れたら模様が浮かびあがる。
君はその傘を玄関に立て、昨夜から何度も眺めていた。
一度だけ、部屋の中で開いてみた。
危ないのでやめた。
次に、長靴を履きたい。
少し前に買った黄色い長靴だ。子ども用のように見えるが、サイズは合っている。
君は店頭で三分ほど迷い、最終的に「まあ、雨の日なら許されるだろう」という独自の解釈により購入した。
それから、水たまりを踏みたい。
大人になってから、水たまりを堂々と踏む機会は急激に減る。
踏んではいけないわけではない。
ただ、君がわざと踏むような真似をすると、すれ違う人々はギョッとする。友人なら一歩後ずさるだろう。そして、ガラスケースの中の奇妙な虫を観察するかのような、冷たく乾いた目を向けられる。
長靴を履けば、少しだけ許されるのではないか。
君はそう信じていた。
つまり君にも、雨が降らなければならない理由がたくさんあった。
窓を開ける。
空は曇っていた。
「……もう少し」
君は空を励ました。
テレビをつける。
『本日の天気は、全国的に雲が広がりやすく、ところによっては雨が降るでしょう』
「そこを全国的にしよう」
君は天気予報士に交渉を持ちかけた。
『なお、晴れ間がのぞく地域もある見込みです』
「余計なことを」
天気予報士は謝らなかった。
当然である。
君はテーブルの上に置いていた、逆さてるてる坊主を見た。
顔は赤いペンで描かれていた。
なぜか牙があった。
「頼むね」
君はそいつを窓際に逆さにつるした。
同じころ、僕は洗濯機を回し始めた。
まだ晴れてはいない。
だが、ここで弱気になってはいけない。
洗濯とは、天気との信頼関係である。
こちらが「君なら晴れる」と信じなければ、空だって本気を出してくれない。
洗濯機が回る音を聞きながら、僕は天気アプリを開いた。
降水確率は四十パーセント。
「六十パーセントは降らない」
僕は都合のいい解釈をした。
そのころ君も、天気アプリを開いていた。
降水確率は四十パーセント。
「ほぼ降るね」
君も都合のいい解釈をした。
空はひとつなのに、人間はずいぶん自由である。
僕はベランダに出た。
風は少し冷たいが、雨の匂いはしない。
たぶん。
雨の匂いが具体的にどういう匂いなのか、僕はよく分かっていない。
アスファルトっぽい何かを感じたら、だいたい雨の匂いということにしている。
「いける」
洗濯機が停止した。
僕は濡れた衣類を抱え、ベランダへ運んだ。
シャツ。
タオル。
靴下。
靴下。
片方しかない靴下。
「またか」
洗濯機には、靴下を片方だけ異世界へ転送する機能がある。
取扱説明書には書いていないが、あると確信している。
僕は片方だけの靴下をいったん保留し、洗濯物を干した。
最後にバスタオルを広げる。
完璧だった。
ベランダいっぱいに、僕の生活が並んでいる。
「めいっぱい晴れろ!」
僕は空を見上げた。
そのころ君は、玄関で黄色い長靴を履いていた。
まだ雨は降っていない。
だが、ここで弱気になってはいけない。
雨具とは、雨との信頼関係である。
こちらが「君なら降る」と信じなければ、空だって本気を出してくれない。
君は青い傘を持ち、外へ出た。
当然、誰も傘を差していない。
通行人が一度だけ君の傘を見た。
不思議そうな顔をされた。
問題はない。
君は近所を歩き始めた。
水たまり候補地はすでに把握していた。
コンビニ前のくぼみ。
公園入口のタイル。
歩道橋下の排水が悪い一帯。
雨さえ降れば、どこも優良物件になる。
「おもいきり降れ!」
君は空を見上げた。
僕は布団を干す準備をしていた。
洗濯物だけではない。
今日は布団も干す。
晴れを待ち続けた者だけに許される、上級の家事である。
僕は布団を抱えてベランダに出た。
その瞬間、頬に何か冷たいものが当たった。
「鳥のフンか?」
だとしたら最悪だ。
恐る恐る触ってみた。
よかった。違った。
空を見上げる。
また一滴、落ちてきた。
「待て」
僕は空に話しかけた。
空は待たなかった。
ぽつ。
ぽつぽつ。
雨粒が増えていく。
「おい」
僕は布団を放り出し、洗濯物へ飛びついた。
シャツを回収する。
タオルを回収する。
靴下を回収する。
靴下。
片方しかない靴下。
「お前はもう好きにしろ!」
僕は片方だけの靴下を見捨てた。
風が吹いた。
靴下が飛んだ。
「待て!」
僕は身を乗り出した。
靴下はひらひらと舞い、下の階のベランダへ消えた。
終わった。
ただ片方しかないだけだった俺の靴下が、完全に俺の配下からいなくなった。
そのころ君は、頬に落ちた雨粒を指で触っていた。
「来た」
ぽつ。
ぽつぽつ。
君はゆっくり傘を開いた。
深い青色の布地が広がり、内側に小さな星が現れる。
「おお……」
想像以上だった。
雨なのに、傘の内側だけ夜空のようだった。
君はうれしくなって、意味もなく傘を一度回した。
周囲に人がいないことを確認して、もう一度回した。
回しすぎて、傘の先から雨水が飛んだ。
通りかかった自転車の男性にかかった。
「すみません!」
君は頭を下げた。
男性は何も言わず走り去った。
雨は徐々に強くなった。
僕は部屋の中に洗濯物を投げ込んでいた。
床にシャツ。
椅子にタオル。
机に靴下。
部屋が急に、安売り衣料品店の閉店間際のようになった。
「四十パーセントだっただろ!」
僕は天気アプリへ抗議した。
降水確率は四十パーセントのままだった。
数字は一切悪びれていなかった。
僕は窓際のてるてる坊主を見た。
左右の目の高さが違うそいつは、相変わらず片方だけ口角を上げていた。
「お前、裏切ったな?」
てるてる坊主は何も言わない。
だが、その顔は明らかに知っていた顔だった。
僕はてるてる坊主を外し、机に置いた。
その瞬間、背後で大きな音がした。
振り返る。
布団がベランダに残っていた。
「あっ」
布団は雨を吸っていた。
僕の人生どころか、空まで染み込んでいた。
そのころ君は、最初の水たまりを発見していた。
コンビニ前のくぼみ。
十分な深さがある。
君は黄色い長靴の先を近づけた。
少し迷う。
車が通る。
通行人もいる。
だが、今日の君には新しい傘と長靴がある。
そして、雨を待った時間がある。
「いきます」
誰にともなく宣言し、君は水たまりを踏んだ。
ばしゃん。
想像以上に跳ねた。
君のズボンにかかった。
「あっ」
長靴は無事だった。
長靴以外が無事ではなかった。
君はしばらく自分の足元を見つめた。
そしてもう一度、水たまりを踏んだ。
ばしゃん。
どうせ濡れたなら、もう同じだった。
雨はその後、一時間ほど降り続いた。
僕は濡れた布団を浴室へ運んだ。
持ち上げると、通常の三倍ほど重かった。
「こんなに水、要る?」
布団は答えない。
僕は浴槽の縁に布団をかけ、途方に暮れた。
パン屋へ行く予定も消えた。
自転車にも乗れない。
洗濯物は部屋干しになった。
片方だけの靴下も消えた。
今日やりたかったことは、ほぼ全滅である。
僕は窓の外を見た。
雨はまだ降っていた。
「喜んでるやつもいるんだろうな」
どこかに。
新しい傘を使いたかった人。
雨音を聞きたかった人。
水たまりを踏みたかった人。
僕はため息をついた。
「そんなやつ、いるか?」
そのころ君は、公園の軒下で靴下を絞っていた。
長靴の中に水が入っていた。
「長靴なのに……」
水たまりへ勢いよく突入しすぎた結果、上から入ったらしい。
新しい傘はすばらしかった。
長靴もかわいかった。
水たまりも楽しかった。
だが、現在の君は全体的にびしょ濡れだった。
君は雨空を見上げた。
「喜んでない人もいるんだろうな」
どこかに。
洗濯物を干していた人。
布団を干していた人。
自転車で出かけたかった人。
君は少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「私のせいじゃないけど」
夕方。
雨はやんだ。
雲の切れ間から、弱い光が差していた。
僕は窓を開ける。
濡れたベランダ。
湿った風。
そして、下の階の室外機の上に、見覚えのある靴下が引っかかっていた。
「生きてたのか」
片方だけの靴下は、雨に濡れながらも、そこにいた。
僕は少しだけ安心した。
取りには行けないけれど。
そのころ君も、空を見上げていた。
雨はやみ、青い傘を閉じる。
雲の向こうに、少しだけ晴れ間があった。
君は黄色い長靴の中の水を捨てた。
ざばっと出た。
「そんなに入ってたの?」
自分でも驚いた。
僕は明日の天気予報を確認した。
『明日は全国的に晴れる見込みです』
「よし」
君も明日の天気予報を確認した。
『明日は全国的に晴れる見込みです』
「そっか」
僕は、明日こそパン屋へ行こうと思った。
布団は干せないが、洗濯物はもう一度洗えばいい。
君は、次の雨の日にもう一度あの傘を使おうと思った。
今度は水たまりへ、もう少し静かに入る。
晴れを待つ僕と、雨を待つ君。
僕は君を知らない。
君も僕を知らない。
けれどたぶん、同じ天気予報を見ながら、それぞれ勝手なことを願っている。
そして空は、たぶんどちらの言うことも聞かない。
翌朝。
天気予報は晴れだった。
僕は洗濯機を回した。
君は傘を玄関に立てかけた。
空は、きれいに晴れていた。
昼までは。